日々、枯らしている
昨日8月5日付、朝日新聞折々のことばを引用します。
何もないところに、種を植えた。芽吹いた。咲いた。枯れた。抜いた。残った。よどむ日々を浄(きよ)めた時間が、残った。
齋藤陽道コロナ禍での「自粛」要請とともに、家族四人だけの日々が「ぽかんと始まった」。写真家は庭の片隅に向日葵(ひまわり)の種を植えた。あっという間に家族の背丈を超え、黄色の花もやがて家族を見下ろしつつ枯れた。情報と雑音ばかりの中で、家族で向きあえたひとつの生命との濁りのない時間。随筆「時間が残った」(「ちゃぶ台」6号)から。
朝日新聞「折々のことば」WEBは以下に、有料コンテンツでしたらあしからず。
写真家、斎藤陽道という名をはじめて知る。聾者なのか?聾学校出身とか障害者プロレスラーとかプロフィールに記してある。本日トップの象さん画像は写真家のホームページから無断で借用してます。
そうですね、枯れて抜いて、整地して、抜いた殻の根に付く土を落としポリ袋に詰め週に一度の植物ゴミ回収に出すところまでが園芸であるわけだ。暑さと水不足のせいで本来の寿命より早く枯れてしまった株も多くあるでしょうが、処理をして秋の定植に備えるのがわたしの仕事であります。 にしても毎朝、亡きがらみたいになっちゃった枯れ枝と暑さに負けぬ雑草の元気さ見ながらの水やり作業で、大いに悲しい気分になるなあ、わたしに何が残るのだろうか。